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ゼミ課題読書感想文

姉崎真歩  201204

 


 

江戸川乱歩傑作選

はじめに

人は皆誰でも異常性を孕んでいるものだ。子供の頃に意中の子の上履きの臭いを嗅いだり、トンボの羽をむしってみたりしたことはないだろうか。私はある。純粋にどんな風なのかを知りたかったからだ。我々を異常行動に駆り立てるものは、つまるところこの好奇心であろう。異常か健常かはいつも周りに判断されることであるから、問題は、自分の行動がどれほど他人に知られてしまっているか、という点だ。

この物語には、根っからの悪人は出てこない。誰かへの恨みなどから犯行に及ぶ者がいないのだ。好奇心が引き金となり彼らは狂人と化してしまう。しかし、我々もまた何かの小さなきっかけがあれば、この物語に登場する彼らのようにジメジメとした狂気の世界へ足を踏み入れることになるかもしれない。

本編はオムニバス形式になっているので、以下1つずつに対して感想を述べていく。

 

「二銭銅貨」(7〜42頁)

私と松村武を中心に繰り広げられる物語。冒頭の4行だけでも、けば立っているであろう畳、少しカビ臭そうな部屋に貧乏くさい男が二人いる場面が想像できる。退屈な毎日から一変、巧妙な暗号を見事に解き、一攫千金を果たすのかと読者を興奮させたところで、終盤、ちょっとした私のイタズラでした、となってしまう裏切りようはもはや爽快ですらある。また暗号のトリックでの南無阿弥陀仏から六連銭、そして点字、となる発想も見事だ。

 

「二廃人」(8〜66頁)

部屋の全体図から斉藤と井原の談笑する風景…と映画のワンシーンのように始まる冒頭部分。夢遊病という自覚症状がない病が物語の鍵を握っている。『寝ている時こんなことしてたよ、覚えてないの?』と周りから言われれば誰しも、<そうなのか…>と疑わないだろう。日常に潜む罠を上手く使っている。井原は皮肉にも20年後に自分を陥れた相手に偶然出会うことで、<殺人者>の呪縛から解き放たれた。さて、この題名にもなっている<廃人>最近若い人の間では堕落した生活を送っていることなどを形容する時に使っているように思う。広辞苑を引いてみれば「重病などのために通常の社会生活を営むことができなくなった人。」とある。井原は外傷ではなく心の重病から廃人であった。この宿場を後にする頃には廃人から抜け出せたであろう、と考えたい。

 

D坂の殺人事件」(67〜110頁)

どこかの町にある古本屋で起きた美人細君殺人事件に、まさか性嗜好異常であるサディズム、マゾヒズムが関わっているとは、物語の最初の時点では誰も予想しないだろう。(体の生傷にはふれているので伏線はあるが)簡単に言えば、美人でいたって普通の感じの奥さんは実はマゾヒストな性癖があって、丁度良く近所にサディストな旦那さんが居たもんだから意気投合してしまって、何度と楽しみごとを重ねるうちに限度が過ぎて運悪く死んでしまった、というなんともセンセーショナルな事件なのだ。これが当時の読者にどんな反応をされたのだろうか、というのが大変気になる。<私と明智>の間で繰り広げられる推理にはスピード感があり、ページを進める手が自然と速くなった。心理学の要素も興味深い。物語が進むにつれ、人が秘密にしたいアブノーマルな部分を覗き見てしまうどんよりした色彩が濃くなってゆくが、ユニークな明智のキャラクターが一抹の爽やかさを加えている。

 

「心理試験」(111〜156頁)

秀才な男子学生、蕗屋が起こす殺人事件を筆者が淡々と追っていくというスタイルで物語は進行していく。彼の頭は本当に理論的で賢い。<殺人のほうが窃盗よりも発覚のリスクは少ないから老婆を殺す>という結論に辿り着くのには倫理的に問題大有りだとわかっているが、なんとなく納得してしまう強さがある。無技工主義を貫き、堂々と振舞ったり、心理学試験をすり抜けようと訓練したりする彼は頼もしい。読みながら彼に少し加担したくなる程だ。よって146頁からの明智と蕗屋の攻防を見ていると「蕗屋!それは得意気に言ったらアカン!」と教えたくなるのだ。追い詰められた蕗屋は「彼の頭の中には妙なことだが、子供の時分からのさまざまの出来事が、走馬灯のように、めまぐるしく現れては消えて行った。」(15413-14行)とあるように子供の頃を思い出している。このような描写は『屋根裏の散歩者』の中でも見られる。人は何かの悪事が暴かれた時、その罪の重さを知った時に無邪気な少年時代に思いをはせるのだろうか。

 

「赤い部屋」(157〜193頁)

またもやバッサリと裏切られる結末に肩の力が抜けてしまった。赤い部屋で身の上話をする男の告白は不気味であるけれどなぜかクスッとしてしまうブラックユーモアの要素がある。この物語を読んでいると私はある出来事を思い出してしまった。あれは小学2年生、送別会のリハーサルの時。私の目の前には椅子をガッタンガッタンと揺らしている女の子。注意しても聞かないので、揺れている椅子に合わせて軽く前にツンと押してみたら、ものすごい勢いで前に飛んでいったのだ。周りの皆はただその子がふざけている間に誤ってそうなったと思うから、あきれたように笑っていたが、事実は私が後ろから押したのがとどめの一撃なのだ。私は本当に申し訳ない気持ちになったが、同時に豪快に飛んでいった姿があまりにも面白いのと、軽く押しただけでこんな風になるのかと思ったら、吹きだしそうになった。すごく冷や汗をかいたのを覚えている。物語の男がやったように、自分の行動によって誰かが間抜けに被害をこうむる所を見るのは確かに刺激的で楽しいことなのだと思う。男が種明かしをして、赤い部屋に電気がつき、人々が現実に戻った途端、冒頭では大変ミステリアスな雰囲気を放っていた部屋がみすぼらしく感じ、なんとも興ざめた気分になる。とてもリアルな表現だと思う。現実の世界というのは適当に退屈で適当につまらないのがちょうど良いのかもしれない。常に刺激的なものに溢れた世界に居れば我々の触手は麻痺してしまうだろうから。

 

「屋根裏の散歩者」(194〜252頁)

 穴があったら覗く、音が漏れていれば聞耳立てる、というのは人間の好奇心だ。この物語の男、郷田も隙見の虜になってしまったようだ。また彼は隙見の前には押入れで時間を過ごすのがマイブームになっている時期がある。その前には主に浅草を舞台に一人妄想劇場を繰り広げる趣味に興じていた。隙見を除いて、自分も嵌ったことのある趣味が次々と出てくるので驚いてしまった。押入れというのは自分の家であるはずなのに扉をピタリと閉めれば異空間のような感じがして、子供の頃よく一人で入って自分だけの空間を楽しんでいた。ドラえもんの影響もあって、ここを寝床にしたいと言ったが認可がおりなかった。また浪人時代は夜の帰り道で、前に歩いている人の足音や足跡をピッタリ合わせて歩くなど挙動不審な行動をして自らを楽しませていた。今思えばあの時の私も彼のように単調な毎日に退屈していた。また、物語中に登場する<なんとなく癪にさわる男・遠藤>の描写が生々しい。読んでいると、「成るほど、これはいらつかせる奴だ」と納得してしまう。ついに遠藤を殺害する郷田は、罪を暴かれた時には『心理試験』の犯人同様に昔の記憶が浮かんでいるのも江戸川流の後悔の念、狂気から抜け出したことの表現なのかもしれない。

 

「人間椅子」(253〜282頁)

 なんと官能的な世界なのだろう、と椅子の中の男に思いを馳せながら読み進めた。視覚は感覚器官の中で多分1番大きな役割を果たしている。しかし人間を本能的に駆り立てるものは、におい・感触・味などの要素だろう。(そして私は俗にいう、においフェチだ。)男が語る椅子の中の魅力は271頁,3行目からの「椅子の中の恋!それがまあ、〜省略〜愛欲なのではございますまいか。」でも語られている。なので異国の人であろう肉体に興奮したりしている男の心情は本当によく理解できた気がした。<お前の気持ちは良くわかったから椅子の外へ早く出ておいで、>と思った瞬間、すべて空想世界だったというオチである。しかしこの作品を読んだ読者達は思い思いの人の椅子の中に自分が入ったところを想像したであろう。著者である江戸川氏は何を思いながら執筆したのだろうか、気になるところである。ロマン溢れるエロティックな世界へと誘われた作品だ。

 

「鏡地獄」(284〜309頁)

 鏡が不思議だということに改めて実感させてくれた物語である。身近に鏡があることで身支度を整えたり、前歯にのりが付いてないかの確認ができる。一方で合わせ鏡、鏡に何か映りこんだ等は心霊現象によくある話だったり、古墳からは銅鏡が発掘されたり、アリスは鏡の向こう側へ行ってしまったりと、人々は昔から鏡というものに対して不思議な力があると考えていたのだろう。そう考えると、鏡中毒の彼が狂ってしまったのも合点が行く。また、美しい彼の恋人と鏡の国で楽しむという彼の性癖はマニアックだが、万華鏡のような世界で繰り広げられるそれはさぞかし芸術的なのであろう。最後は球体の鏡の中に入って発狂する彼だが、この鏡の玉は現代の技術では可能なものなのか大変気になる。彼を発狂させた風景をぜひとも見てみたい。

 

「芋虫」

 九編収録されている中で一番怖さと狂気を感じた。戦争で負傷した男(須永中尉)の肉体描写は限り無くグロテスクであり、妻の時子は周りから隔絶された状況で精神不安定だ。その心の隙間を埋めるかのように醜い肉塊に発情し、男の精神を支配することに快感を見出す彼女の姿は痛々しい。興味深かったのは、視覚を失った後の夫が視覚が残っている時よりもむしろ人間らしくなったことだ。視覚があったために彼は動物的な欲望の囚人になってしまったのだろう。暗闇の中で彼は「ユルシテ」と書かれた感触を感じとりながらも考えた結果自殺に至ったかと思うと胸が痛くなる。芋虫は芋虫のまま暗闇へと落ちて行った。いや妻の元から飛び立ったのだろうか。

 

 最後に

 いままでどうして江戸川作品を読んでこなかったんだろう!と悔やまれるほどおもしろい作品たちであった。描写が鮮やかで読者を本の世界へズッポリと引き込んでしまう。暗号、心理学、科学の知識もあって文才もある、ちなみにシナソバも作れる…なんて、天才としか言えないだろう。あとがきに書いてある、彼の筆名の由来がEdgar Allan Poeをもじったもの、というエピソードも、なんて小洒落ているんだ!と思ってしまう。

 私の感想がやけに変態チックになのはすっかりもうかぶれてしまった証拠だ。ほかの江戸川作品も今後ぜひ読みたい。

 

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プロタゴラス 

はじめに

 最初はカタカナの長い名前に戸惑い何度も主要登場人物のページと本編を行き来しながら読んでいた。昔のギリシャ人って美術室にいた白い石膏の像みたいな顔してるのかな、それならすごいかっこいいだろうな、それならこのアルキビアデスって青年は相当のものなんだろうな、しっかし「パイラスディア」って気になるな…としょうもない事ばかりが頭を過っていたのだが、ソクラテスとプロタゴラスの対話が始まる頃にはすっかりカリアス邸でベンチに座っている聴衆の一人のような気持ちで「なるほどな…」と読み進めていた。現代の日本ではこの物語に出てくるような言葉の一つ一つの意味を定義づけて吟味する時間はあまり取られていないだろう。小学校でも漢字の読み方は習うが、言葉の意味や用法をしっかりと教わり、考えさせられる時間はなかったように思う。なんとなく文脈から感じ取っていただけなのかもしれない。だから彼らように、明確に定義された言葉を用いて議論をし、答えをだそうとしている姿にうらやましさを感じてしまう。知的好奇心の探究に古代ギリシャの人々が多くの時間を割いていたことへのうらやましさ、とも言えるだろう。彼らは賢い、そして美しい。私もソクラテスの言うように、賢いものはより美しくみえる、と思うのだ。

 

内容について

自分がどんな能力を身につけたいのかよくわからないけども、何となく今よりも優れた人間になりたくて、とりあえずすごく賢者なことで有名なソクラテスの弟子になりたい!とはしゃぐヒポクラテスは今の自分の状況とも重なる気がした。私もなんとなく賢くなりたいなぁ、という気持ちで特に深く考えることなく近所で一番有名そうな大学に進学しただけだからだ。

ではソクラテスの弟子になればどんな事を教わることができるのか直接聞いてみよう、というところから段々と二人の対話が始まってゆく。問題の核心となる<徳(アレテー)は人に教えることができるのか、否か。>という問いがあの手この手のアプローチで進められていく対話は少し難解な部分もあるが、哲学素人の私でも十分に着いて行けるくらいきちんと順序だてて説明されていた。私は「第3章 プロタゴラス、徳を論ず」でプロタゴラスがソクラテスに語る、生き物たちが地上に出る準備をする神話の話(P5966 5行目まで)がとてもおもしろいと思った。どうして<あとで考慮する者>であるエピメテウスが先頭に立って分配作業をやってしまったのか、が気になるが、人間が知恵を手にしたいきさつがたいへん都合よく上手に描かれている。プロメテウスの盗みの罰が怖すぎるのも、さすがギリシャの神々は違うな、と当時の人々の想像力に感心してしまう。

 また「第7章 プロタゴラスとの対話」での大衆が唱えている<快楽に征服されて、それゆえに、何をするのが最もよいかをわかっているのに、それをしない>(P166 11)の部分が、結局ソクラテスとプロタゴラスによってこの論はデタラメだと言われているのだが、自分にとってはとてもグサリとくる文であった。そして読み進めると、これは計量の知識がないことで起こる。つまり無知が原因、となる結論はさらにグサリと胸に突き刺さった。私が今まで無駄に過ごしてしまった時間は私の無知によるものだったのか。またソクラテスが述べる快楽の例として、飲み食いやセックスが出てくるのには、この時代も現代も人間にとっての欲望を満たすものは変わらないのだな、と思う。

 物語が終盤に入り、<徳は知識である>という結論に達しそうになった時に、お互いの当初の主張と今自分達がしていた主張が逆になっているのに気がつき、また後日話し合いましょう。という終わり方になっている。これには大変驚いてしまった。「アポリア」(解説 P 214 1行目)と言うらしいのを解説ページで知ったのだが、もしこれが映画であるなら次回作を期待させるような終わり方だろう。しかし解説にはまた、<読者を哲学にいざなおうとしているのだとお考えください。>(P230 10行目)とある。なんとお洒落ではないか。実際に哲学ってちょっと面白いかも…と思い始めている読者がここにいるのだから。

 最後に

 プロタゴラスのもとへ訪ねるきっかけであったヒポクラテス君は、自分が弟子になりたくて来たはずなにソクラテスにまかせきりでまったく話さない。最初のはしゃぎようはどこへ行ってしまったのだろうか。途中で帰ったのか、とさえ思っていたが、解説には<沈黙をとおしてその姿を浮き立たせようとしているようにもみえます。>(P230 13)とある。しかしいくら沈黙をとおすといっても、帰る直前くらいに少し出る場面があっても良かったのではないかと思う。あまりにも存在感が無さ過ぎて、解説を読むまではすっかり彼の存在を忘れ去っていた。そしてこれは私なりの結論なのだが、ヒポクラテスは高いお金を払ってプロタゴラスの弟子になるよりも、いままで通りソクラテスと仲良くしながら議論の仕方などを彼と練習して、色々教えてもらった方が良いと思うのだ。

 

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罪と罰

はじめに

 ロシア文学は陰陰滅滅としている、とどこかで聞いたことがある。(はたまた映画のセリフだったか。)その噂どおりこの『罪と罰』は暗く重苦しいものに感じられた。貧しい暮らしの人々、その貧しさを紛らわすかのように皆酒場に通い、度数の強い酒を飲んで酔っ払っている、古い建物はゴミが散乱し、悪臭漂う。と街の描写をザッとまとめてみるとこのように寒くて灰色な退廃的ムードが漂う当時のロシアの街並みが想像できる。(酷すぎるかもしれないが)

 正直言うと私はこの主人公ラスコーリニコフにあまり愛情を注いで読み進めることができなかった。自分をたいへん愛してくれる家族がいて(もっとも、その有り余る愛が彼を殺人へと駆り立てたとも言えるが)、愛想も良くないくせにお人好しな友人もいる。おまけに気立ての良い女神のような妻まで手に入れることができる。どうも納得いかない。また彼の精神状態は、やけに自信家だったり、自分を卑下してみたり、あるときは善人の部分が顔を出したりと、情緒不安定すぎてついて多少苛立つ部分もあった。

個人的な感情論はさておき、ここまで自問自答を繰り返し、<殺人計画〜殺人後〜自首〜その後>に亘る心の揺れを描くというのがこの作品を現実味おびたものにしているのだろう。またキリスト教の知識が随所に登場したが、宗教についてはめっぽう知識が無いため、その世界観の理解までには至らなかったのが残念だ。

なお、時間が間に合わないと思い、上巻と下巻だけを読む、という暴挙に出てしまったことをここで反省したい。

内容について

酒場で出会うマルメラードフの話は本当にひどい。彼の自分のダメ人間具合を大きな声で惜しげもなく披露する姿は想像しただけで痛々しいとともに私をイラっとさせる。しかし終盤彼が馬車に轢かれ、臨終をむかえる場面では、彼は家族に看取られ、娘への罪滅ぼしの言葉を伝えることもできる。これは極めて幸せな最期だろう。酷いことをしても、最後には罪は赦される、というラストはこの物語全体に流れるキリスト教の影響が感じられる。

この物語の中で主人公は<役立たずの老婆1人を殺して、彼女の財産を未来ある者のために使うことは犯罪ではない>という彼なりの信条によって殺人までの道を進んで行く。

これについて私が思うところは結構主人公に近いものがある。殺人を犯すかは別にして、老いぼれた人が使うあても特にないのに収集の楽しさによって貯金に耽ることを馬鹿にする傾向がある。押入れ貯金をしていた老婆が泥棒に入られた事件などが起こったことがあると思うが、そのような事件がニュースで流れていても特別情が湧いてきたりしないのだ。

しかし、物語に話を戻すと、彼の計画は失敗と言えるだろう。無駄に老婆の妹まで殺害した挙句、目的の金は手に入れられず自分の家族や妹の助けになることもなかった今、彼はただの人殺しへと降格しただろう。これでは正義も何もない罪である。

下巻、自首をする場面でもまだ彼は自分のしたことを犯罪とは受け入れることができずに揺れ続ける。それに対しソーニャは十字路で罪を認めることを彼に言う。これまで神に対する信仰心を見せてこなかった彼が涙を流しながら地べたにお辞儀し、口づけする場面は彼の再生を期待させてくれる。さらに見守るソーニャの姿を見つけることから愛を確信することでやっと自首へと向かうことができる。物語は、刑期の途中で終わっている。結局人間を立ち直らせることができるのは愛の力である。という美しい終わり方だと思う。しかし、彼を殺人へと駆り立てたのもまた家族愛である。また、彼は老婆とその妹を殺害した罪悪感よりも自分が起こしたことによって愛する者たちが傷つくことに罪を感じて自首したのではないか。陰気くさいと思っていたこの物語は家族愛をはじめ、人との愛によって間違いを犯し、また更正していくという「愛」に溢れた物語なのかもしれない。

最後に

主人公ラスコーリニコフは様々な人(主に周りにいる女性たち)からたくさんの愛情を注がれているのに、どうしてこんなにひねくれてしまったのだろうか。彼は、刑務所に入ってからもしばらくソーニャの愛に甘え自分が苛まれている羞恥心から彼女に酷い態度をとっている。しかしこれは彼女の愛を確かめているようにも見え、子供臭さを感じる。もしかするとひねくれているのではなく未熟で純真こそ、なのかもしれない。

また登場する女たちは慈悲深く、我慢強く、面倒見が良いものがほとんどだ。男たちのやることを最後には全て赦してくれる存在ともいえるだろう。これは作者のキリスト教への信仰、聖母のメタファーともいえるのだろうか。

1890